シトシトと泣く空。
秋の冷たい雨が降り注ぎ、大地を濡らす。
朝から降り続ける雨が窓を優しく叩き、冷えた風が雨の隙間を縫って吹く。


─まるで俺の様だ…─


降り続く雨に気怠さを覚え、ソファにその長い脚を伸ばしたシュラは窓の外を眺めては思った。
その意外に長い睫を伏せ、瞼を閉じれば映るのは一年も前に別れた恋人の姿。


「…俺らしくも無い…」


一人呟いた言葉は誰に向けてのモノなのか。


何時も、柔らかな笑みを浮かべ執務から帰る自分を迎えてくれた。
些細な変化も見逃さずに、優しく包んでくれたあの優しさ、あの腕。
全てが当たり前になり過ぎて、気付けなかった事も有る。
鬱陶しいとすら思った事も有る。


「…今更悔いても…戻って来ない…」


二度目に呟いた声は、自分でも笑ってしまう程に弱く、掠れていた。


─そう、手放してしまったのは俺の所為…。


マンネリと化した日々に飽き、他の女を抱いた。
それも三日三晩通して。
其処に愛情は無く、互いに遊びと割り切った。
だからこそ燃え上がるモノが在ったのかも知れない。


出掛けるとも、外泊するとも知らせて無かったシュラを待っていたのはやたらと鼻に付く匂いを纏った。


「…シュラ……」


襟から覗く肌に残る紅い痕。
自分でもましてやが纏う事の無い甘さの中に痺れを含む香り。
シュラの止まった視線の先に気付いたのであろうは、両の手で襟元を隠し視線をシュラから外す。


「…誰に抱かれた?」
「………」
「そうやって俺が居ない間に…此処で抱かれたって事か?」
「違…、シュラ…聞いて…」
「……出て行け。直ぐに出て行け!」



言葉と共に拳を叩き付けたテーブルの脚が傾く。
荒げられた言葉と、その音に身を強張らせたは何か言葉を紡ごうと唇を動かした─しかし。


「……」


その唇が言葉を紡ぐ事無く、白い歯に噛み締められ、薄く血を滲ませる。
シュラは怒りに満ち溢れ、その場を後にした。


─後ろからは、押し殺した泣き声。



「…俺の行動が原因だったのにな…」


が荷物を全て処分し出て行ってから一週間後。
デスマスクから聞いた事実にシュラは愕然とした。


『お前が街で他の女を連れて歩くのを見たそうだ』
『その後にアイツは強姦に有った…相手は此処の雑兵三人。既に処罰は与えてある…だそうだ』


街でシュラの姿を見掛けたは、心在らずと言った様に聖域へと戻ってきた。
誰かに会うのも嫌で、近くの森の奥に有る泉の畔で静かな時間に心を癒そうとした。
その後を付けて来たのが、聖域に身を置く雑兵三人。
彼等は正の心よりも負の心の方が強かったのだ。
を気絶させ連れ込んだ先は、聖域から離れた廃墟。
其処に三日も監禁され、辱み者にされた。


酒を煽り、酔い潰れた三人の目を掻い潜り脱出し、磨羯宮へと戻った直ぐ後にシュラも帰って来た。
あの甘く痺れる様な香りは、酒と媚薬の香り。
三日、その匂いに晒されれば髪に、身体に染み込むのは当然の事だった。

其れを聞いた時には既に遅かった。
の行く先を知っている者は居なかった。



「…シュラ?居るのか?」


不意に入り口から声が響く。
顔を見ずとしても解る、デスマスクのモノだ。


「……何の用だ?」


重い身体を無理矢理に起こし、振り向けばデスマスクが苦笑いを浮かべている。


「少しばかり気晴らしにでも行かねェか?」
「…そう言って女目的か?」
「其れも良いがな。今回ばかりは呑むだけだ…奢るぜ」


だから早く用意しろ、と急かすデスマスクに珍しい事も有る、とシュラは思う。
薄めのジャケットを羽織り、滅多に吸わない煙草をジーンズのポケットに仕舞い込み入り口で待つデスマスクへと歩み寄る。


「じゃあ、行くか」


そう言ったデスマスクがニヤけていたのが気になったが、シュラは他愛も無い会話を交わしながら共に街へと向った。





カラン、とドアベルが乾いた音を鳴らす。
古びた酒場に足を踏み入れれば、会話を邪魔しない程度の音量で流れるジャズ。
他に客は片手で足りる程の人数で、デスマスクとシュラの風貌はやたらと目立っていた。


「いらっしゃい」
「おう、マスター何時ものヤツ二つな」


デスマスクは既に顔馴染みなのだろう、マスターと呼んだ男と談笑を交わす。
自然とカウンター席に着き、目の前に琥珀色の液体が注がれたグラスを差し出される。


「初めまして、だな」
「あぁ…何時もコイツが世話になっているみたいだな」


シュラがデスマスクを示して言えば、男を連れて来るのは珍しい、と笑うマスター。
横のデスマスクはグラスに唇を付け、二口程酒を喉に流し込む。
シュラも頂く、と小さく会釈し喉へと酒を流し込めば、ピリと刺激が走る。
シュラはポケットに仕舞った煙草を取り出すと、其れに火を灯した。


「…で、だ」
「…?」


グラスをテーブルに置いたデスマスクは咥えた煙草に火を灯す。
肺へと入れた煙を吐き出し、一間置くとその表情は先程迄の浮ついた表情ではなく─


「いきなり本題なんだが…お前、何時迄引き摺る気だ?」
「…何の事だ」
「……もう一年も経つか…」


直接的では無いのに何処か直接言われた気がするのは何故だろう。
手元のグラスに視線を落とした儘、思考を巡らすシュラに溜息を吐いたのはデスマスクだった。


「…もう戻れねェのは解ってンだろうよ」
「解ってはいる……しかし俺はを…」


疑って掛かってしまった後悔。
己のした軽い行動が引き金となってしまった出来事。
其れ等が全て、時間が経つにつれ重くシュラへと圧し掛かる。


「…もしどうにかしたいと思うなら…探す事だな」


出来る筈だろ?とデスマスクはフィルターぎりぎり迄吸い終わった煙草を灰皿に押し付け消す。
名残り煙が漂い、フワリとその煙草の香りが鼻腔を擽る。


「探した所で…アイツは俺を…」


二人の間に無言が包む。
灰皿に置かれたシュラの煙草が大分短くなり、燃え尽きる間際。
不意にグラスを拭きながら二人の会話に耳を傾けていたマスターが口を開いた。


「…兄さん、男がウジウジしているモンじゃないよ」
「……」
「…思って引き摺るだけじゃ…何も変わらんよ」


お節介だったかな、と呟いたマスターは、ポンとシュラの肩を力強く叩き他の客の注文を取りに行ってしまった。


「……だとよ」
「……」


何も答えなくなってしまったシュラにデスマスクは小さく溜息を吐くと二本目の煙草に火を灯した。


「…悪いな、先帰るぞ」
「おう…」


グラスを開けたシュラから漸く出た言葉は、帰るという内容。
デスマスクは返事をしながら、カウンターに戻って来ていたマスターへとアイコンタクトを取る。


「兄さん」
「…なんだ?」
「時間が有るなら、近くの岬へ行ってみると良い。考え事には持って来いの場所だ」
「…あぁ。馳走になった」
「また来ると良い」


そう言ったマスターの笑顔は優しく、シュラもつられる様に薄く笑み片手を上げ酒場を後にした。


「…お前さんの友達も真面目だな」
「真面目過ぎて、飽きれるっつーの」
「……上手くいくと良いがな」
「さぁな。後はアイツ次第だ」






酒場を出ると、未だ雨は降っていた。
傘なんて持って来ていない。
シュラは濡れる事も構い無しに、マスターから教えて貰った岬へ行く事にした。


──これ以上考えても仕方無い事なんだがな…


そう思いながらもシュラの足は岬へと一歩ずつ近付く。
街から大分離れ、人気が少なくなれば潮騒が雨音に混じって耳へと届く。


(…誰か居るのか…?)


灯りは無い。
しかし暗闇に人の気配を感じる。
ゆっくりと近付いた岬には一人、傘も差さずに立っていた。


(先客か…)


またの機会にしよう、と踵を返そうとした時だった。


「……シュ…ラ…?」


か細い声が雨音を縫って響く。
暗闇を凝視すれば、濃い色のワンピースを纏った女が一人。

「………」


否定の返事は無い。
互いに疑心で呼び掛けたが、合っていたという事を無言が肯定する。
シュラもも降り注ぐ雨に打たれ、身体は冷たいのに心拍数が上がる。
二人の微妙な距離が痛い─シュラはそう思った。


「…久し振り、だね…」
「……あぁ……」


ぎこちない会話。
元々口数がそう多くないシュラがこの状況で言える言葉が簡単に見つからずに居た。


「…こんな所で傘も差さずに何をしている…?」


シュラが漸く見つけた言葉は、そんな程度だった。


「…雨の日は…必ず此処に来るの」


が息を吸う音がやけにリアルに聞こえる。


「こうしていると……汚いモノを…流せる気がして……」


段々と小さくなっていくの声。
何を意味するのか、シュラには直ぐ解った─いや、解らなければいけなかった。


──伝えなくては。


「……今更言っても遅いかも知れん…だが、聞いてくれ」


返事は無かった。
暗闇に慣れた目で彼女を見れば、此方に背を向けて天を仰いでいる。


「…俺の一人善がりだった……お前があんな目に合ってしまったのも…俺の所為だ…」


一歩、シュラはとの距離を縮める。
思考よりも先に、身体が反応している。


「…謝って済む問題では無いと解っている…そうと知らず、お前を責め離してしまった事を…俺はずっと後悔していた」


また一歩。
段々と近付くシルエットは、一年前よりも少し細く、触れてしまえば消えてしまうのではないかという錯覚すら覚える。


「…済まなかった……赦してくれとは言わん…言える訳が無いが…」
「……っ…」


ふわり、と。
の身体をシュラの長い腕が包み込む。
互いに熱は奪われ、冷えた身体でも何処か暖かさを感じるのは何の所為だろうか。


「…俺を殺しても構わん…の気の済む様にしてくれても構わない…」
「…そんな事は出来ないわ…ね、シュラ…?」


天を仰ぎ見る事を止めたが己に回されたシュラの手に自分の其れを添える。
声は震え、頬を伝うのが雨雫なのか涙なのか解らない。
それでも、は必死に言葉を紡ぐ。


「…ずっと…この一年、ずっとそればかり思っていたの…?」
「…あぁ」
「…私も……貴方の事が忘れられなかった……忘れたい事だらけだったのに…」


それでも…、と続けるが僅かな隙間でシュラへと振り返る。
細い腕を懸命に伸ばし、シュラの鍛えられた背へと回そうと足掻く。


「…貴方の傍に…貴方に傍に居て欲しいとずっと……」
「……済まない…済まない…!」


ポタリと一粒。
シュラからの頬へと落ちた雫は温かかった。


「…もう一度…やり直したい…傍に居て貰えないだろうか…?」
「……良い…の?穢れて…るのよ?」
「気にするモノか…俺が全てを清める……お前の全てを」
「……シュラ…」


それ以上の言葉は要らない、と。
重ねられた唇から伝わり、其処から暖められる。
ゆっくりと、ゆっくりとこの一年の空白を、葛藤を後悔を。
全て分かち合い、混じり合わせるかの様に何度も絡ませた舌は熱く、呼吸が儘ならない。

降り続く雨が全てを二人から流してくれる様な、そんな気さえした。




冷えきった身体を包まれながら、は一年振りの磨羯宮へと足を踏み入れた。
あの時と変わらない、必要な物だけしか置かれていないシュラの部屋。
ただ違ったのは其処には自分の荷物が無い、という事。


「…また少しずつ揃えていこう」


言葉に表しては居ないのに視線の行く末で解ったのだろう。
そう言ったシュラの声は優しく、柔らかなタオルで包まれる。

変わらないシュラの匂い。
変わらないシュラの大きな掌。

は懐かしさと暖かさに涙を流していた。


「…?」
「シュラ…っ、シュラ……!」


はシュラの身体にしがみ付いていた。
濡れた服を脱いだシュラの背に指先を引っ掛けて、何度も何度も名を呼ぶ。
この時間を、この温もりをどれだけ望んだ事か。
どれだけ恋焦がれた事か。

シュラは優しくの髪、額、目元へと口付けを落とす。
細くなった身体を抱き上げ浴室へと向い、濡れて肌に張り付くワンピースを脱がしてやれば、何時の間にかは泣き止んでいた。






しっかり糊の効いたシーツの海。
それも今では自分達の下で乱れ、暖かな毛布が肌に心地良い。
頭の下には一切の無駄も無く鍛えられたシュラの腕。
目の前の厚い胸板からは優しい温度が伝わる。

全てを塗り替える様に、躰の至る所に残された紅い華。
至る所に残るシュラの指先の感覚。
全てがの心を溶かし、満たした。


「…眠れないか…?」
「ん…もう少しだけ…」


先に瞼を閉じていたシュラと視線を合わせれば、優しくも熱を持った眼差しが自分を見つめる。
流されそうになりながらも、はシュラの躰の至る所に触れては吐息を吐く。
それは安堵と愛しさを含むモノだった。


「…」
「……ん…?」


─愛している。

その囁きが子守唄となって、二人をまどろみへと落としていく頃。
冷たかった雨は、優しき雨となっていた…─







「で?」
「あぁ…もう一度やり直す事になった」


そーかい、と二回繰り返したデスマスクは紫煙と共に溜息を態とらしく吐いた。


「…あのマスターに感謝する事だな」
「…マスターに?」


アイツに聞くんだな、と手を振ったデスマスクが離れると同時に後ろから呼ぶ声が掛かる。

今迄住んでいた場所に戻り荷物を取って来たが聖域の入り口迄着ていた。


「持つぞ」
「アリガト…今のデスマスクさん?」
「あぁ、そうだが…」
「あの人ね、私が働かせて貰っていたお店によく来てくれていたんだよ」
「…は?」


素っ頓狂なシュラの返事には一度驚いた様に目を見開くと、直ぐにクスクスと笑い始めた。


「…マスターに聞いたよ…シュラも来たって」
「あの…酒場か?」
「そうよ」


やられた…!と思う頃にはデスマスクの姿は既に見えなくなっていた。
シュラは片手で額を押さえると、視線をへと向ける。


「まぁ…ヤツには感謝しなければならんのか…」
「え?」
「いや、何でも無い」


背中を押してくれた悪友に、皮肉を込めてテレパシーを送る。

"有難う"と。


そして横に居る恋人にも口付けと共に─

「…有難う…これからも宜しくな、」





fin.